善悪の彼岸

社会人5年目、ものづくりと哲学と研究が好き

純粋理性批判を読む②~緒言~

諸言

純粋認識と経験的認識との区別について

我々の認識は全て経験から始まる。対象が我々の感覚を触発して、表象を作り出し、我々の悟性(我々自身が持っている認識能力)がこれらの表象を比較し、結合し分離する。すなわち感覚的印象という材料に手を加えて対象の認識にする、この認識が経験である。我々の認識が経験をもって始まっても、我々の認識が必ずしも全て経験から始まるわけではない。(経験は、対象から触発された感覚的印象に悟性が自分自身のうちから取り出した悟性概念を付け加えた合成物だから)  経験に関わりのない認識、また一切の感覚的印象にすら関わりない認識をア・プリオリ(先天的)な認識という。それと区別して経験的認識をア・ポステリオリ(後天的)な認識という。ア・プリオリな認識について更に明確に言えば、「一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識」である。このように経験的なものを一切含まない認識を純粋認識という。

我々はある種のアプリオリな認識を有する、そして常識でも決してこれを欠くものではない

 では純粋認識と経験的認識を区別するものは何か?経験はなにかあるものが事実として◯◯であるということは教えるが、「それ以外ではありえない」という必然性を教えるものではない。それがもし必然であるならばそれはアプリオリな判断(純粋認識)である。また、経験はその判断に普遍性を与えるものではない。もしある判断が厳密に普遍性を持つと考えられるなら、それは経験から得られた判断ではなくてアプリオリに妥当する判断である。  このようなアプリオリな純粋判断が人間の認識に在ることは、例えば数学の命題をひとつ取ってきてみれば明らかである。また、悟性の面から考えてみれば「変化は全て原因を持たなければならない」というような命題が考えられる。このような判断ではなく、概念にも純粋認識が存在することはわかる。例えば物体という経験概念について考えてみる。物体から経験的なもの、即ち色や硬さ、柔らかさ、重さなどを抜いてみる。いくらこのような属性を抜き去ってみても物体が占めていたところの空間は残っている。空間は抜き去ることができない。このような性質はアプリオリな認識(純粋認識である。)

哲学は一切のアプリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を必要とする

 純粋理性にとって避けることのできない問題は、神、自由、及び不死である。これらを考えるためにそもそもアプリオリな認識はどうして得るに至ったのか、またこのような認識はどのような範囲、妥当性、価値を持つのか考えなければならない。  数学は、その対象と認識がアプリオリな直観に置いて現示される場合のみ、これを研究する学である。特に数学はよく純粋認識と差が無いようにみえる。 我々の理性の大きな部分は、すでに発見されていることを分析することに費やされている。概念の分析は私達に色々な新しい認識を与え、(すでに考えられていることを分析するので)これらは一見新しい認識のようにみえる。ただこれは概念を拡張するというよりただ、分解しているだけである。理性はこれに欺かれて、全く別の種類の主張をこれに取り入れるのである。

分析的判断と総合的判断の区別について

 主語と述語を含む一切の判断に置いて、2通りの方法が可能である。 - 分析的判断:述語Bが主語Aの概念のうちにすでに含まれているものとして主語Aに属する(述語と主語の結びつきが同じ原理で考えられる) - 例:「物体は全て延長を持つ」 - 総合的判断:述語Bは主語Aと結びついているが全くAの概念の外に在る。(主語と述語の結びつきが同じ原理で考えられない) - 例:「物体は全て重さを持つ」

我々は分析的判断を解明的判断、総合的判断を拡張的判断とも言い換えれる。  経験判断はその全てが総合的である。分析的判断を経験に求めるとしたらおかしなことになる。分析的判断を構成するにはすでに私が持っている概念から外に出る必要はないからである。ではアプリオリな総合的判断とは如何にして成り立つのだろうか?(アプリオリということは経験によらない)

理性に基づく一切の理論的ながくにはアプリオリな総合的判断が原理として含まれている

数学的判断は全て総合的判断である。しかも数学的命題は常にアプリオリな判断であって経験的な判断ではない。 例えば

  • 7 + 5 = 12
    • 一見分析的命題であるように思う
    • よく考えると7と5の"和"という概念は、この2つの数を結びつけて1つの数にするということしか含んでいない
    • しかしそれだけではこの2つの数を合わせた12という1つの数がどのようなものかはまったくわからない
    • だがもし、私が直観のままに紙を使って5個の点を書き、そこに7個の点を書き加えて12という数が生じることがわかる。この時私は7と5の概念の外に出なければならない。
    • 7に5が加われなければならない、ということは7+5という式からわかるがその和が12に等しいということは和の概念においては考えられていないのである。
    • だから算術的命題は、常に総合的命題である。 同じように自然科学はアプリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。同じように形而上学にもアプリオリな総合的認識が含まれていないければならない。(例えば「世界にはそもそもの始まりがなければならない」など)

純粋理性の一般的課題

 理性の根本的な課題は「アプアどうリオリな総合的判断はどうして可能であるか?」ということである。ヒュームはこの問題の解決に近づいたが、かれでさえ因果性の原理を考えるのにとどまり、「アプリオリな総合的判断は不可能である」と結論づけた。(すなわちヒュームは我々の形而上学は全くの妄想であると言い切った)「アプリオリな総合的判断がどうして可能であるか?」という問いは

  • 純粋数学はどうして可能であるか?
  • 純粋自然科学はどうして可能であるか?

という問いであるとも言い換えられる。これを形而上学について言えば「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか?」と言える。すなわち「学としての形而上学はどうして可能であるか?」ということである。これが理性批判の学である。もし理性が経験において自分に表れるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することができるはずである!

純粋理性批判という名をもつ或る特殊な学の構想と区分

 以上から純粋理性批判という特殊な学の構想が生じる。理性とはアプリオリな認識の原理を与える能力だからである。カントは対象に対する認識ではなく、我々が一般的に対象を認識する仕方に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名付ける。そうなると、この概念の体系は先験的哲学と名付けられる。この研究の意図するところは認識そのものの拡張ではなく認識の修正であり、アプリオリな認識の価値or非価値を判別する試金石であることである。  先験的哲学はあるしゅの学の構想であり、純粋理性批判が建築術的に、原理に基づいて立案すると共に、この建物の全ての部分の完全と安全を十分に保証せねばならぬような学である。即ち先験的哲学は、純粋理性の原理の体系となる。このような学を区分するにあたって一番重要なのは、経験的なものを含むような概念が入り込んでならない、言い換えればアプリオリな認識はあくまで純粋でなければならないということである。だから先験的哲学はまったく思弁的な純粋理性の哲学である。

所感

  • 我々の認識が経験をもって始まっても、我々の認識が必ずしも全て経験から始まるわけではない。
    • これがまじで何言ってるのかわからない。
  • 物体から色々な経験的属性を抜き取ってみても空間は残るやろ!それがアプリオリな認識じゃい!というのを読んで、何故かUnityを思い出した。Unityでも正方形のオブジェクトから摩擦や色、重さなどを抜いていくと最終的に空のオブジェクト(Empty)になるが、空間上の座標は指定しないといけない。という意味では空間に属さないUnityの環境設定やコード規則(例えば mainloopが一秒に何回実行されるか?)とかがカントの言う純粋認識になるんだろうか?
  • 経験的な数学ってないんだろうか?ねぇか
  • 経験を含まない思弁的な純粋理性を考えることそのものがカントの忌避する経験の限界をこえた理性仕様の暴走に繋がる危険が在るんじゃないか?と思ってしまった。また、この学で重要になるであろう、総合的判断(自らの概念に含まれていない新たな概念)を気をつけて取り扱わないと、そもそもその概念って経験から来てるよね?というブーメランが刺さりそうな気がした。
  • カントのモチベーションはよくわかったし、掲げている問題に関してはすごいワクワクしたのでここからどうカントの純粋理性批判が展開するのか楽しみにはなった。