飽きっぽい自分にしては絵を描く習慣が続いている。去年の10月頃から絵を書き始めて、なるべく毎日描くようにしている。さすがに毎日少しずつ続けているとちょっとずつ上手くなっている感覚があり、それが楽しくて続けられている。


ここ数年会社を辞めてフランスに来たり、全く門外漢のデザインを学んだり、絵を描いてみたりと、割と色々なことに挑戦していると思うのだが、何かを習慣づけたり、今までやったことないことに挑戦するのに必要な心持ちとして、「特別なことだと思わない事」が重要だと思っている。
何かに挑戦したり、毎日継続するのは当たり前だが大変なことである。しかし、それを大変なことだと思ったり特別なことだと思うと尚のことハードルが上がってしまう。そこで、「こんなこと誰でもやっている」「当たり前だ」と思うことでそのハードルを下げることができる。当たり前だからこそ日常として継続的に続けられるし、特別なことではないと思っているからこそ挑戦できる。ある意味、やることの価値を意図的に毀損することによって、ハードルを下げ、日常的に取り組むことができる。
全てを「特別ではない当たり前のこと」として日常を設計する
自分の中で、フランス語を勉強すること、絵を描くこと、走ること、ブログを書くこと等は特別ではない当たり前のこととして日々に組み込めている。なので、最近はめんどくさくて後回しにしがちな事務処理や授業の課題なども毎日5分でもいいから取り組むようにしている。毎日少しずつでも嫌なことに取り組んでいると、なぜかやらなかった日が逆に気持ち悪くなってくるので不思議である。最近、自身の生活を徹底的に習慣化していることで有名になった田中渓さんは習慣化を歯磨きに例えていた。同じようなことを画家の坂口恭平さんも言っていたと思う。
特別なイベントも「当たり前のこと」と思い込むことで乗り越えられる
最近私はパリでバックパックを盗まれてPCやパスポートを失った。しかしネットで調べてみると在仏日本人は一回は何かしら盗まれる経験をするのだという(実際はまぁそんなことないだろうけど・・・)。そう思うとモノを盗まれた経験も「まぁそんなもんか」と乗り越えることができる。最近「機動戦士ガンダム閃光のハサウェー」という小説を読んでいたら
「死ぬくらいは皆がやってきた事だ。」
というセリフが出てきた。人間にとって究極的に特別なことは自分が死ぬことだろう。
以前、日本の大学院で死生学の授業を取ったとき「死ぬ瞬間:死とその過程について」という本を読んだ。アメリカの精神科医であるエリザベスキューブラー・ロスが、病気によって余命を宣告された患者達が、どういうプロセスで死に向かっていくかを記録した本である。
だが、その中で、がんに罹った14歳の少女が「自分は神様のところに行くだけだから」「他のキリスト教徒の仲間たちもみんなやってる」と最後まで毅然とした態度で死んでいくという描写があった。
死ぬことと何かを継続する事は、全く違うことだが、それくらい自分がこれから直面する困難や、チャレンジ、日常的な事について「特別なことではない」と思いこむことは有効なのではないかと思う。
