善悪の彼岸

社会人5年目、ものづくりと哲学と研究が好き

【純粋理性批判を読む③】先験的感性論〜時間と空間〜

緒言

 認識が直接に対象と関係するための方法、また一切の思惟(考えること)が手段として求める方法は直観である。しかし直観は対象が我々に与えられる限りにおいて生じるものである。これは対象がいずれかの方法で我々が在る仕方で心意識を触発することによってのみ可能である。

 我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力を感性という。なので対象は感性を通してのみ我々に与えられる。そして感性のみが我々に直観を与える。だが、対象は悟性によって考えられ、悟性から「概念」が生じる。我々が対象から触発される限り、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果を感覚という。感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観という。まだ経験的直観が規定されていない対象を現象という。現象において感覚と対応するものをカントは現象の質量と名付ける。これに反して、現象の内容を在る関係において整理するものを現象の形式と呼ぶ。現象の形式は感覚を受け入れるものとして我々のこころのうちにアプリオリに備わってなければならない。そしてこの形式は一切の感覚から分離して考えられなければならない。

 感覚に属するものを一切含んでいない表象は純粋な表象と呼ばれる。感覚的直観一般の純粋形式は、我々の心の中にアプリオリに見出され、現象における一切の多様なものは、この純粋形式によって直観させられるのである。感性のこのような純粋形式のことを純粋直観と呼ぶ。

  • 例えば在る物体があるとする
  • ある物体から悟性の思惟するもの(実体、力、可分性)を取り除く
  • 更に感覚に属するもの(不可入性、色、硬さ)などを分離する
  • それでも我々に残っているものは延長、及び形態である。
  • このような空間的なものが純粋直観である。

 このようなアプリオリな感性の諸原理に関する学をカントは先験的感性論(感性に先立つ経験的な意味?)と名付けた.  カントは先験的感性論を以下のように進める

  1. 悟性が概念によって思惟する一切のものを分離して経験的直観だけを残し、感性を孤立させる

  2. この経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して純粋直観(現象の単なる形式)だけを残す

  3. 最後に残ったものが感性がアプリオリに与えうる唯一のものである。   こうしていくと感性の2つの純粋形式である”空間”と”時間”がアプリオリな認識の原理であることがわかるので、これから時間及び空間について考察していく。

空間について

空間概念の形而上学的解明

 我々は外感によって対象は我々の外に在ると表象する(すなわち空間の中にあると表象する)これに対して心は内感によって自分自身を、あるいは自分の内的状態を直観する。これが心そのものの直観を与えるものではないが、時間という一定の形式があり、心の内的状態の直観は時間によってのみ可能になる。だからこのような心の内的規定に属する一切のものは時間の関係に置いてのみ表象される。では、時間と空間はどのようなものだろうか?これは現実に存在するんだろうか?また、空間や時間は直観の形式に付着するようなものなのだろうか?  そのためにまず空間の概念を究明していく

空間は多くの外的経験から流出されてできた経験的概念ではない。

私の感覚がある空間に在る何かAとBに関係しえるためにはすなわちAとBの感覚が別で、異なった場所に在るものとして表象するためには、空間の表象がその根底になければならないからである。

空間はアプリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外敵直観の根底に存在する

 わたしたちは空間の中に対象が存在しないことを考えることができるが、空間そのものが全く存在しないと考えることはできないからである。すなわち空間は現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能ならしめる条件だからである。

空間は純粋直観である

 我々はただひとつの空間しか表彰できないからである。もし多くの空間という場合にも、それを一切包括する唯一の空間の構成要素であるというだけである。なので空間についてはアプリオリな直観が空間に関する一切の概念の根底に属することがわかる。なので幾何学の原則は全て(例えば「三角形の2辺の和は他の1辺よりも大きい」という命題も直線や三角形という一般概念から導出されるものではなくて)アプリオリな直観から導出されたものである。

空間は与えられた無限量として表象される

 我々はどんな概念でも無数の表象を自分の”もとに”包括している表象と考えて差し支えない。だが、それが概念である限り、無限数の表象を”自分のうちに”包括しているかのように考えることはできない。故に根源的な空間表象は概念ではなく、アプリオリな直観である。

空間概念の先験的解明

 あるアプリオリな原理に基づいて、別のアプリオリな総合的認識(例えば幾何学)の可能が示されるとき、このような原理としての概念の説明を先験的解明という。  この意味に置いて幾何学は、空間の諸性質を総合的に、アプリオリに規定する学である。では幾何学が空間の諸性質をアプオリに規定するためには、この空間表象はどのようなものでなければならないだろうか?まず、このような空間表象は直観でなければならない。概念からはその概念の外に出るようなものは引き出せないのに幾何学ではそれが可能でだからである。しかもこの直観は対象に対しての一切の知覚の前に我々の心に存在しなければならない、すなわち、純粋直観でなければならない。

上記の諸概念から生じる結論

  1. 空間は物自体の性質でもなければ、物自体相互の関係に置いて示すものでもない→空間は物自体の規定ではない。
    • 物の規定は、その物が属するところの物が存在するより前、すなわち アプリオリには直観され得ないからである。
  2. 空間は、外感によって表象せられる一切の現象の形式である。
    • 空間や延長を有するものその他を口にしうるのは人間の立場からだけである 我々が外的直観を持ちうるための唯一の条件、即ち対象から触発せられうるという条件を捨ててしまえば空間表象というものは全く無意味である。空間という述語はものが我々に現れる限りにおいて、つまり物が感性の対象で在る限りにおいてのみ物に適用される ※1我々は感性の特殊な条件を物を可能ならしめる条件とすることはできない。我々はこれを、物の現象を可能ならしめる条件となし得るだけである。例えば「一切のものは空間において併存している」という命題は、これらの物が我々の感性的直観の対象を意味するという制限のもとでのみ妥当である。つまり対象自体は我々に全く知られていないのであって、我々が外的対象と呼ぶものは、我々の感性の単なる表象にほかならない。そしてこの感性の形式を空間だというのである。

時間について

 時間は

  1. なんらかの経験から抽出された経験的概念ではない。
    • 時間がアプリオリに根底に存在しないならば物が同時に在ることも継続的に在るのも知覚できないからだ
  2. 時間は一切の直観の根底に存在する必然的表象である。

  3. 時間関係を規定する原則や、時間一般に関する公理が可能であることはこのようなアプリオリな必然性に基づく

    • 時間は一次元のみをもつ。なので異なる時間は同時的ではなく継時的である(空間と同じように)
  4. 時間は論証的概念でなければ一般的概念と呼ぶものではなくて、感性的直観の純粋形式である。

  5. 時間が無限であるのは、ある一定の長さを持つ時間は、その根底に存在する唯一の時間を制限することに因ってのみ可能である、という意味にほかならない。

時間概念の先験的解明

 さらにここに2つのことを付け加える。ひとつは変化の概念及びこれと共に運動の概念は、時間表象に置いてのみ可能であることと、もし時間表象がアプリオリな内的直観でないとしたら、いかなる概念をもとにその同一の場所における物質の変化の可能を説明できないということである。

これらの概念から生じた結論

  • (a) 時間はそれだけで実在する何か在るものではない。また客観的規定として物に付随するような何かでもなければ、物の直観を成立しめる主観的条件を取っ払ってもあとに残る何かでもない ※2
  • (b) 時間は内感の形式にほかl,ならない。換言すれば我々自身と我々の内的状態との直観形式にほかならない。
  • (c) 時間は一切の現象一般のアプリオリな形式的条件である。
    • 時間は我々の内的(我々の心の)現象の直接の条件であり、またこのことにより、間接的に外的現象の条件である(我々が我々の身体で外界を認知する限り)

時間自体が絶対的に実在すること(絶対的実在性)を我々は主張できないが。現象(感性的直観の対象)としての一切の物は時間のうちにある(経験的実在性)、ということは客観的に正しいし、アプリオリな普遍性を持つことになる。

説明

 時間は、対象そのものに付随するものではなくて、対象を直感するところの主観に属することを説明した。このように時間と空間は2つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ異なるアプリオリな総合認識が生まれる。純粋数学は空間及び空間関係の認識に関して1つの実例となる。しかしこの2つのアプリオリな認識源泉は限界を持つ、すなわちこの2つの形式が関係するのは、現象とみなされる限りの対象であって、物自体としての対象ではないことである。

先験的感性論に対する一般的注

これまでカントが主張してきたことは次のことである。

  1. 我々の一切の直観は、現象を表象する仕方にほかならない

  2. 我々が直感するところのものはそれ自体としては、我々が実際に直感しているところのものと同じものではない

  3. もし我々の主観を除きされば、空間、時間における対象の一切の性質や関係はもとよち、空間及び時間そのものすら消失する。

  4. また、このような時間や空間の性質や関係は現象であるから、それ自体存在するものではなくて、我々のうちにのみ存在する

 内的直観においても全く同様なことが言える。内的直観において本来の素材となるものは、外感の表象であり、これが我々の心意識を占めている。更に我々が表象を入れるところの時間が、すでに継起的存在の関係や、同時的存在の関係を含んでいるのである。そして時間そのものは、経験における表象の意識よりも前にあり、我々が表象を心意識に入れる仕方の形式的条件として、意識の根底に存在するのである。 空間及び時間の性質は、それぞれ物体及び心が現実的に存在するための条件であり、私達はこの性質にしたがって物体と心を立てるのである。  我々は神学において神を考えるが、このような対象は我々にとってまったく直観の対象にならないばかりかこの対象自身にとっても決して感性的直観の対象になり得ない。そこで神学では時間と空間とを前もって物自体の形式にしておいてた、そして物の存在のアプリオリな条件として、物自体が除かれてもなお、あとに残るような形式にしたのだ!このように空間と時間を一切の存在一般の条件としておけば、それは神の存在の条件にもなるからである。 ※3

先験的感性論の結語

カントは、先験的哲学の一般的課題「アプリオリな総合的命題はどうして可能であるか?」の要件のひとつを先験的感性論で示した。それはアプリオリな純粋直観であるところの空間および時間である。我々がアプリオリな判断において、与えられた概念の外に出ようとする(総合的)場合に、アプリオリに発見され、その概念に総合的に結び付けられるものを空間及び時間において見出すのだ。ただ、このような空間や時間も、感官の対象以上のものではなく、可能的経験の対象にしかなりえない。

所感

  • 空間の概念の先験的解明ということでだいぶ哲学らしくなってきたぞ〜  
  • ※1 これはだいぶ面白い。私達が物を認知し得ない空間があるとしたら空間という人間の直観は成り立たないということだな。なるほど納得できる気がする。  
  • ※2 人間がいなければ時間も存在しない。時間は我々が世界を観測する直観の形式であるから。当たり前のことだと思うが面白い。
    • 変化するものを継続的なものだと思える限界のポイントはどこなんだろうか?(人間は数ヶ月で体を構成する物質が入れ替わっているらしいけど、私はその人だと認識できるのはなぜか的な)
    • 何かの病気でも物質の継続性を認識できなくなるみたいな話を聞いたことが在る気がする。
  • 外的と内的という言葉がよく使われるが、どこまでが内的でどこまでが外的なのかよくわからない。  
  • ※3 時間と空間を我々の直観から切り離して、そもそも存在するものとして置けば、神の存在の条件足りうるというのは面白い。確かに時間と空間は誰が作ったんや?神やろ?ってなるもんな。しかし直感的には時間はまだしも空間はそもそも存在していると思ってしまう。