善悪の彼岸

ノリと勢いでフランスに来たエンジニアが個人開発や好きな哲学、フランス生活について書くブログ。

善悪の彼岸①

今日からニーチェ善悪の彼岸を読んでいこうと思う。
プロレゴメナがまだ20ページほど残っているが、最後の20ページは何となく、カントが自分の行った仕事、すなわち先験的総合判断は成り立ちうるのか?と形而上学に投げかけたことをドヤっているだけのページだと思ったので読むのを一度やめた。

とりあえず30ページほど読んだけど、ニーチェ節操なく360度に攻撃しすぎワロタ。というのが最初の感想である。


カントから物理学から霊体の原子論やら、ストア派の人たちまであらゆることすべてに食って掛かり、「お前がやった仕事は高貴ぶった論理や絶対的な第3者からの視点とやらに支えられているように見えるけどそれって、結局人間としての生存本能とか生への衝動とかそういうものに制限されているんじゃないの?」と藪から棒に引っ掻き回している。

けどその視点は僕がプロレゴメナを読み始めたときにちょっと感じていたことで、

或る哲学者の違いの意識的な思惟は、その本能によって密かに導かれ、一定の軌道を進むように強いられている

と指摘するニーチェの鋭さ半端ない。さらにこのような生への執着による誤った判断を放棄することは生を断念することになるだろうとか流石のストイックさだよなぁ。
そうやって鋭い刃でばっさばっさ切っていくんだけど、だんだんただの悪口になってっちゃうところがカントの悪いところだけど、そういうところも人間らしくてすごい好きだなあ。

もう一度本題に戻ると、ニーチェが唱える全ての理性的、論理的な判断は人間の動物としての本能によって制限をかけられているって説が本当だとすると、僕が今興味を持っている、自動化やAIが進んで本当に人間がやることがなくなった時人間はどんな暇つぶしをするのか人間はどうやって進化していくのかという疑問の答えはくそつまらないものになるんじゃないかと思った。

というのはこのままか科学が進化して人間が機械で自分の体を置き換えて体を手放し、「楽園追放」のアンジェラとディンゴの会話にあった「はるかかなたの銀河の隅を漂う素粒子になって宇宙を旅する」ような経験ができるようになったとしても人間の感性は結局子孫を残すことや動物としての本能に縛られてしまうのはないかと思ったからだ。

なんかそれってほんとうにしょうもなくない?