善悪の彼岸

社会人5年目、ものづくりと哲学と研究が好き

純粋理性批判を読む①

純粋理性批判を読む

  • 今日からカントの純粋理性批判を読んで、内容をまとめつつブログに投稿しようと思う。プロレゴメナ(カントが純粋理性批判が難しすぎてよくわからん!という意見に対して、自分で書いた純粋理性批判の要点をまとめた本)は読んだことがあったが、純粋理性批判はよくわからなすぎて40ページくらいで挫折した。今回、純粋理性批判を読み解きつつ内容をまとめて、思考を言葉にする力とか自分のやりたいことにどう論拠をつけていくかということを学びたいと思う。

アウトプット

  • 章でまとめてブログにして投稿する

序文

第一版序文

理性には原則がある。この原則は何かを経験する際に必ず使われる。なのでこの原則は経験によって示されている。この原則の及ぼす範囲を決める、理性がどこまで有効なのかをジャッジすることが純粋理性批判の目的である。だがカントが行う批判は、書物や体系の批判ではなく、理性が、一切の経験によらず到達しようとしていることに対しての批判である。そして理性が関わる問題の全てに、答えやヒントを与えるような"理性の原則”をカントは見つけた。このような原則は理性とはなにか?を全て言い表すものなので、少しも拡張したり付け足されることがない。

第二版序文

論理学が、後退する(そもそもこんな問題に意味はあるのか?と迷ってしまうなど)ことなくアリストテレスの時代から続いてきたことは明らかである。論理学は思惟の形式的な規則を余すことなく説明している。
 理性認識は二つの仕方で対象に関係しうる。

  1. 対象とその概念とを規定する:理性による理論的認識

  2. 上記に加えて対象を実現する:理性による実践的認識

 数学と物理学は対象をアプリオリに規定しなければならない理論的認識である。理性認識で重要なのは、例えば自然科学で言えば、自然から学ばねばならないことや、また理性自体だけではそれについてなにもしりえないようなことを、自分自身が自然の中へ入れたものにしたがって、これを自然の中に求めねばならないことである。自然科学や数学はこのような革新によって、ついに一つの学問となった。こう考えると形而上学は孤立し、思弁的な理性認識である。そして形而上学はこれまで、学問として確実な道を歩んでこなかった。そこでカントは形而上学に対しても自然科学や数学に起きた革新を模倣しようと考えた。これはコペルニクス的転回と同じようなものである。すなわち対象の性質によって直観が規定されるのではなく、我々の直観が対象を規定するという考えである。その対象とは"経験によって"得られるものである。すなわち我々の直観が経験から得られるものを規定する。なので経験自体が理性の認識の一つ(先験的感性論)である。この見方によって、我々はアプリオリな認識とは何かを考えることができる。
 では、私達が可能な経験とはどこまでを言うのだろうか?これに答えを出すことが形而上学の目的である(先見的論理学)。このように数学や自然科学を手本として、形而上学の従来のやり方を改変しようとする試みが純粋理性批判の本旨である。もし、これがやり遂げたならば、全ての形而上学の試みはカントが”理性の原則”の上に成り立つ話となる。(数学のありとあらゆる公式が四則演算の上に成り立っているように)
 この純粋理性批判の分析の章で証明されるのは、「空間と時間とは、感性的直観の形式に過ぎない」ということである。つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなく、感性的直観の対象としての物、すなわち「現象としてのもの」だけである。ということは理性が可能な思弁的認識は経験できる対象に限られる。私達は「物自体」を思弁的理性によって認識することはできない。だが、私達は「物自体」を認識することは経験によって認識することはできないが、考えることはできる。神や霊魂についても同様で、思弁的理性から、経験を超越して認識するという権利を奪い去らない限り、神や霊魂を実践的な使用のために想定することすらできない。このように超経験的な概念に対して不当な権利を与えないことによって哲学から一切の有害な影響を取り去ることがカントの目的である。理性がどんな仕方でいかなり権利を持って、純粋認識に至ったかを批判しない独断論は危険である。なので、我々はヴォルフが規定したような厳しいやり方でこの”理性の原則”について考えねばならない。  カントは自らが構築した純粋理性の体系が不変なものであると確信している。なぜなら、純粋理性の一番些細な要素から始めて徐々に全体に達し、全体から発して一番粗末な要素にいきつく、すなわち二通りのやり方で結果が同じだからである。

所感

  • カントのモチベーションは「なんか形而上学って今まで何を土台にしてるか不明で、行ったもん勝ちだし行ったり来たり無駄が多いよね、まずは地盤を固めようよ、数学や論理学みたいに。」ということだと受け取った。
  • 「私達は、経験したこと以上のことを理性によって語りえない」ということはなんとなくわかるが、数学とかもそうじゃね?と現段階では思ってしまい、いまいちぱっとこない。
  • 「つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなく、感性的直観の対象としての物、すなわち「現象としてのもの」だけである。」ここはかなりしっくり来た。全く関係ないけど、最近読んだ、人の時間感覚は代謝によって変わる(運動した直後など代謝が上がった状態では時間が遅く感じる)という話も個々に通じるのかなと思った。結局、時間は人間が作った取り決めであって、それを介してしか物を認識できないということなのかなと思った。