善悪の彼岸

社会人5年目、ものづくりと哲学と研究が好き

道徳の系譜

今日はニーチェ道徳の系譜を読んでいる

 

道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

 

 やっぱりニーチェは最高に面白い。

僕はショーペンハウアーニーチェが好きだが、ショーペンハウアーは読むのがしんどいのに比べてニーチェは読み始めたら止まらなくなってしまう。

 

それはニーチェから、あまりに人間臭さを感じてしまうからだと思う。

ショーペンハウアーが淡々と「間違っていないこと」を軽い文体で語るのに比べて、ニーチェは本人の苦悩が伝わってくる。そしてニーチェは「超人」という高すぎる理想を全うしようとしたために発狂して死んだ。最高に信頼できる。

 

そしてひとつのテーマについて、本気でどこまでも深く悩みぬいているからこそ彼の言葉は私たちの心を打ち、後世に伝わっているのではないだろうか。

とりあえず途中まで読んで感じたこと

今日、僕的にテンションが上がったというか刺さった言葉はこれ

 

これらの徒輩(すべての無力なもの、抑圧されたもの、毒心と敵意に疼いているもの)にあたっては、幸福は本質的に麻酔・昏迷・安静・平和・「安息日」・気伸ばし・大の字になることとして現れる。 

 貴族的人間が「活動していること」が必然的に幸福の一部となることにたいし、弱い者たちにとってはそうではない。慰めや安全が一番の幸福なのである。僕が好きな攻殻機動隊SACの草薙少佐も同じようなことを言っている。

「才能も無く努力もせず不平言って足引っ張る奴は、口だけ開けて雨と埃だけ食って辛うじて生きてろ」(草薙素子

 

最近のTwitterなんか本当にこんなんばっかである。何をしたいか、ではなく、何がダメか、何が不公平かという言葉たちがひたすらバズっている。阪急の広告の炎上とか。池袋の交通事故とか。それらはひたすらに自分より上なもの、自分より幸せなもの、ズルをして幸せになっていると「感じる」ものたちへの嫉妬だ。結局自分の人生がうまくいっていないのを他人のせいと考えることで憂さ晴らしをしている。そして平等を求め、ひたすら何も考えなくてよい「楽」な時間を欲している。

 

だが、結局、行動をしないから傷つかないが、好転もしない。そして好転しない自分の人生を慰めるために他人に文句を言う。ひたすら建設的じゃない。負のスパイラル。さらにこういう人たちへの分析としてとても興味深かったのが以下の言葉である。

強さとはその衝動作用・意思作用・活動作用そのものに他ならない。あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の作用と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの表れから分離して、自由に強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。

これは才能とか天才という言葉が表していると思う。あくまで本人の努力・行動・意思と切り離し、遺伝的先天的なもの、生まれた環境にその「強さ」を帰属させる。だからただ「憧れる」だけである。

 

ではそうではない人間はどのような考えを持っているのか。ニーチェのいう「貴族的人間」が持つ資質はこうだ

 

いかに多くの畏敬を貴族的人間はその敵に対してもっていることか!全くのところ、彼は自分のために、自分を際立たせるものとして敵を要求するのだ!

ニーチェのいう「貴族的人間」は、自分が乗り越えるべき困難として「敵」を設定している。だから敵は自分で決める。非常に建設的である。自分がさらに幸せになるための糧として敵を作る。最近だと南海キャンディーズの山ちゃんが同じようなことを言っていた。こういう人たちは無敵である。なぜなら自分の人生をよくするためには行動をしなきゃいけないことをわかっていて、困難をさらに幸せになるためのチャンスだと考えているから。行動が困難を引き起こし、それを乗り越えることでさらに幸せになる。幸せのループ。

 

結局、自分の能力を信じて、地道に努力するしか道はないんだろうな。最後まで読み終わったらまた感想を投稿しようと思う。