善悪の彼岸

社会人5年目、ものづくりと哲学と研究が好き

Teamsと村的価値観について

最近この対談を見た。

 

 

 

この対談めっちゃ面白かったんだけど、その中で東さんと成田さんが未来を予測するみたいなとこがあって特に面白かった。

 

成田さんは、このまま技術が発達すれば、AIによって重要な意思決定が行われ(政治とか)、人間はその観測者として生きるだろうみたいなことを言っていた。それに対して東さんは、人間は誰に責任があるか?すなわち裏で人間が決定していることを求める生物なので、そういうAIによる決定という仕組み自体を人類が拒否するんじゃないか?みたいなことを言っていた。

 

んで、結論としては楽観的に技術が使われる未来像じゃなく、こういう人間の特性や限界を議論したほうがいいんじゃね?ということだった。

 

個人的には東さんの意見に賛成で、どんなテクノロジーが発明されてもそれを使うのが人間である限り(なんかこうめっちゃ身体拡張されて脳みそ弄られてるとかでない限り)いつの時代も似たような使い方しかされないし、需要は変わらないんじゃね?という気がする。

 

私は組合の役員をしており、会社の中でコミュニケーションを活性化させるためにはどうすればいいか?みたいな話をするんだけど、その中でTeamsみたいなチャットツールが導入されて、テレワークが可能になった結果社員同士のコミュニケーションが減ってるみたいな意見が必ず出てくる。(だから、もっとリアルのイベントを金かけてやろうみたいな話になる)あとは、Teamsみたいな文面だけのツールだと温かみがないとか。

 

そういう意見を聞くと、別にTeamsもうまく使えばコミュニケーションはリアルと同様に活性化するんじゃね?という気がする。さっきの東さんと成田さんの対談の結果からすれば、結局私達がコミュニケーションツールに求めてるのって、仮想の村的なもの何じゃねえかという気がする。

 

もしTeamsを架空の村的なものだと想像すると面白いなと思った。例えば、よく30人くらいのチャットグループで、誰か個人にメンションすることがあるけど、それってむらの広場に30人集まった状態で、拡声器使って「〇〇さんこれはどういうことですか?」みたいに叫ぶのに近い。それに対して個人にメッセージを送るのは、その人のところまで歩いていっておしゃべりする感じだ。

 

よくこう、コミュニケーション活性化!と言って雑談ルーム的なチャネルを作ってみたりするのだが大体だーれも書き込まない。それもなんか村的に考えると納得できて、雑談場所みたいなところが区切られてて、みんな外からガラス越しに見えるみたいな感じだ。そりゃまあ書き込まないわな。だいたい雑談って、特定の場所でするもんじゃなく、自然発生的に何かの用事のついでにするもんだ。それよりも完全に部外者のアクセスを排したそこそこ属性の近い少人数グループをいくつか作る方がコミュニケーションは活性化しそうだ。(中学校の班分けのイメージ?)

 

こうやって仮想的な場を提供するツールを使うときは、物理的な空間に置き換えて対応付けて考えてみると、もうちょっと上手くバーチャルなコミュニケーションが取れる気がした。

 

更には、Teamsのようなツールをもっと、村的なコミュニケーションを促進するような設計、使い方ができると、インターネット上でより温かみを感じるコミュニケーションができるんじゃないだろうか。例えば、似たような雑談をしている人たちを程よく混ぜるグループを自動生成するとか、似たような話をしているグループを遠巻きに眺められるようにするとか。

 

何にしても私達が人間である限り、村的なコミュニケーションを求めてるのは間違いない気がする。

 

ここらへんはメディアの進化にも言える気がして、昔は新聞やテレビで万人が同じものを見ていたが、現在はYouTubeなどで自分の好みの動画を選択するようになってる。全国民にむけて同じものを放映して、同じものをみんなが見るなんて状況が特殊なのであって、村的価値観で言えば小規模な集団が群生している方が自然だと思う。