善悪の彼岸

社会人5年目、ものづくりと哲学と研究が好き

小坂国継著「西田幾多郎の思想」要約 ①二元論の否定

概要

 

西田幾多郎は日本の代表的な哲学家でわたしも「善の研究」は読んだことがあるが、他は難しすぎて手が出ていなかった。(ぶっちゃけ「善の研究」もよくわかってない。雰囲気で読んだ)最近、小坂国継の「西田幾多郎の思想」という本を読んでいて、これが結構わかりやすいので序盤の「二元論の否定」の部分を要約してみた。

 

4つのポイント

・西田は主観と客観を区別することを否定した

・西田は一と多を区別することを否定した

・西田は現実と理想を区別することを否定した

・西田は理論と実践を区別することを否定した

要約

西田によれば、精神や意識の世界と、物質や自然の世界を区別して考えることは抽象的なものの見方に過ぎず、そのような区別以前の「純粋経験」の世界が具体的な世界である。精神と物体は独立した二つの実在でなく、唯一の実在の2つの要素、側面、機能である。西洋近代のものの見方は「我思う、故に我あり」のデカルトのように二元論が一般的である。しかし西田からすれば我々は世界の中にあって、「世界の中から世界を見ている」のである。例えば環境問題について考えてみる。環境の外から単なる利用対象として環境を見るのでなく、自分が環境の中に入っていって環境の中から環境について考えるときに真の解決が見出されるのではないかというのが西田のいう「純粋経験」の思想である。

 

 西田は主観と客観の区別に加え、多と一の区別も否定する。西田は個々の純粋経験の背後には一種の普遍的な意識が存在すると考えていた。この思想は後期西田哲学において「個物と個物の相互限定即一般者の自己限定」という定式で表されるようになった。これは、多数の個物が相互に働きあうことは一なる世界が働くということであり、逆に一なる世界が働くということは多数の個物が相互的に働きあうということである。身近な例を見てみよう。一つの指を動かすときには他の四本の指も動く、すなわち五本の指は互いに限定しあっている。我々は目に見えるものを実在と考えがちであるが、西田は目に見えるものの奥底にあるこのような目に見えない働きを根本的な実在と考えていた。

 

 西洋の考え方では理想の世界と現実の世界を分ける傾向がある。プラトンイデア(理想)の世界と現実の世界を明確に分け、現実の世界は永遠かつ完全なイデアの世界の影像もしくは模造に過ぎないと考えた。しかし、西田はこのような区別を否定し、現実の世界がそのまま実在の世界である(現象即実在)と言っている。よって日常的世界が唯一の世界であって、別に理想的世界があるわけではない。西田哲学は種々の世界とその相互の関係について論じているが、それは種々に異なった世界があるわけではなく、我々の世界を見る視点によって種々の世界が現出し、重なり合って存在しているだけである。

 

 西洋では理論(認識)の原理と実践(行為)の原理を別個のものと見なす傾向がある。しかし東洋の伝統的思想は、知(知識)と行(行動)が本来的に合一したものであるという「知行合一」の思想である。これは西田の思想にも形を変えて受け継がれている。西田は「純粋経験」の極致として「知的直観」を解いているが。これは芸術家のインスピレーションの境地に見られるような、至高の作用や行為が自ずと生じてくる(例えば勝手に筆が動いて絵が完成していくような感覚)ような意識状態を意味している。真の知は自己が物の内に没するところにあると考えたのである。

 

感想

理想的世界など存在せず、日常的世界のみが実在であるという話はスッと入った。我々はなにか理想の人生が存在すると考え、それとの差に思い悩んだり失望するが、実際には理想の人生など存在せず、日々の選択と行動があるのみである。それでも存在するように思える理想的世界は、誰かが繰り返した日常的な選択と行動の「結果」であって、それはあくまで日常的世界の影像に過ぎない。そういう意味で、プラトンは理想世界の影像として現実世界を見たが、実態はその逆で、理想的世界側が青写真であり、実存しているのは日常的世界だけなのでは?と思った。

 また、知行合一の概念に関しても考えたことがあることに近いことで面白かった。私には、自分が行動することなしに、知識を得たとして、対象を真に知り得たことになるのか?という疑問があった。その自分なりの答えとして、私は、知識を得ながら行動を修正し続けていくことで真の知識を得ることになるのではないか?と考えていたが、これが知行合一であり、その極致にあるものが西田の言う「知的直観」なのではないかと思った。