善悪の彼岸

ノリと勢いでフランスに来たエンジニアが個人開発や好きな哲学、フランス生活について書くブログ。

小坂国継著「西田幾多郎の思想」要約 ③否定の論理

前回の「無の思想」に続いて、西田哲学の否定の論理についての部分を要約してみたが、短い割にマジで内容が難しく要約というよりコピペになってしまった部分が多かった。

 

【3つのポイント】
・西田哲学における「即」の意味
・初期の「知的直観」と中期の「絶対無の自覚」の思想
・後期の「行為的直観」と最晩年の「逆対応」の思想

 

以下要約

 

西田哲学における「即」の意味

これまで出てきた二元論の否定や、無の思想の根底を支えているのは、西田哲学が本質的に「否定の論理」であるということである。中期以降の西田の著作には「即(すなわち)」という言葉が頻繁に出てくる。一即多、多即一、内即外、外即一など枚挙にいとまがない。西田自身はこの即のことを「絶対矛盾的自己同一」のことであるといっている。例えば一即多・多即一とは一が矛盾的に自己同一的に多であり、多が矛盾的自己同一的に一であるということである。言い換えれば、一はどこまでも一でありながら、同時に自己否定的に多であり、また多はどこまでも多でありながら同時に自己否定的に一であるという意味である。しかしこの説明はまだ十分ではない。自己否定には「自己を無にする」というようなニュアンスを含んでいる。けれどもそれは同時に自己を見出すとか、生かすとか、目覚めるといった積極的な要素を含んでいるのではないだろうか。これを鑑みると一即多・多即一というのは一が自己否定的に多であり、多が自己否定的に一で有るのと同時に、一がそのまま多であり、多がそのまま一であるという意味でもある。

 

ハガレンのこれを思い出した。大きなスケールで見れば一に見えるものも、もっとミクロにみれば多に見えるということだろうか?難しい!

 

初期の「知的直観」と中期の「絶対無の自覚」の思想

このような否定の論理はどの時期の西田の思想にも一貫して見られる。例えば初期の「善の研究」の時期の「知的直観」の思想が典型的である。「知的直観」とはもっとも理想的な、もっとも究極的な段階の純粋経験のことである。例えば画家が制作の佳境に入り、その精神の集中が頂点に達して、画家が絵筆を動かしているのではなく、絵筆が自ら動いているような状態を考えると、それはまさに主観と客観が合一し、知情意が融合している状態と言える。西田はこのように主観と客観が相互に自分を没し、物と我が相互に自分を忘れ、全ての区別や分別がなくなっているような状態が真実の世界であり、善行の極致であると考えた。

もはや自分が絵を描いているのか環境が自分に絵を描かせているのか分からないくらい没頭するのが主客合一の状態?

中期の西田哲学の根本思想は「絶対無の自覚」の思想である。これは、自分の根底が絶対無であることを自覚することであるが、この感覚は道徳的な自己が行き詰まって自己崩壊するところに現れる。我々はどこまでも自己を主張し自己を肯定しようとして行き詰まり、深い自己矛盾を経験し、その極限において一転して自己を否定するに至り、安心を得る。自己を放棄することによってかえって真の自己を獲得するのである。ここにも西田の否定の論理が見られる。

 

後期の「行為的直観」と最晩年の「逆対応」の思想

後期西田哲学の重要な思想に「行為的直観」の思想がある。これは我々の自己というものを否定して、徹底的に物や事になりきるということである。西田はこれを「物来って我を照らす」とか「物の中に入って物の中から物を見る」と表現している。とかく我々は自分の側から世界を見ようとしがちである。西田哲学はこのような自己中心的・主観主義的な物の見方を転換して、逆に世界の側から物を見ることを説く哲学であると言っていいだろう。(ものから私を見る図)最後に「場所的論理と宗教的世界観」に出てくる「逆対応」の論理にも触れておこう。逆対応とは、絶対と相対、無限と有限、一と多のような全く対立的なものが、相互に対立しながら、また方向を逆にしながら、しかも相互に自己否定的に対応しあっているという逆説的な関係を表す概念である。阿弥陀物と衆生の関係でこれを説明してみると、阿弥陀物が衆生を救済しようとする一方、煩悩にまみれた衆生が助けを求める。ここで衆生が自分は如何に煩悩にまみれた罪深い人間であるかということを自覚すればするほど、そのような衆生を救済しようとする阿弥陀物の本願が成就されるということである。この逆対応の中にも自己否定の要素が見られる。衆生が自分の罪を自覚するということは、そのような自分を悔やみ反省するということが含まれており、そうした自分を放棄し否定するということが含まれる。この自己否定が深まれば深まるほどその人は救われるということは、自己否定は同時に自己肯定でもあるのである。

 

感想

難しすぎる。正直全然よくわからなかった。一対多のように対立した概念の片方を主張しようとすると自己否定的にもう片方の概念が強調されるということだろうか。それとも、片側の概念に没頭することにより二項対立が消失し、混ぜ合わさった状態になるということ? 終盤の「絶対無の自覚」のところで出てきた、自分を主張しようとするあまりに自己矛盾に陥り、自己否定に転じてそれを突き詰めていった結果安心を得るというのは、理屈としてはわからないでもないが実感としてはあまり理解できなかった。何かをやろうとして、頑張ってみたけどやっぱ自分はダメだよなと否定に転じ、けどダメだからこそやってみればいいじゃないか!と開き直るということだろうすれば、岡本太郎の「自分の運命に楯を突け」にも似たようなことが書いてあった気がするが、ちょっと違う気がする。開き直ると言ってもまだ自己を放棄するというところまでは行ってない気がする。更に自己を否定して、では世界の側から自分を見るとどうだろうか?世界にとって自分は、自分がやろうとしていることはどんな意味があるだろうか?と考えるのが大事ということだろうか?難しい。ここらへんは自分で西田幾多郎の本を呼んでみるしかなさそう。