ジョージ・オーウェルは近未来の監視管理社会を描いた傑作SF小説「1984年」や「動物牧場」で有名な小説家である。私は5,6年前に「1984年」を読んだのだが、そのあまりに緻密な監視社会の様子や、リアルさ、醜悪さに衝撃を受けた。
『1984年』(1984ねん、原題: Nineteen Eighty-Four)または『1984』は、1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説。全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。欧米での評価が高く、思想・文学・音楽など様々な分野に今なお多大な影響を与えている近代文学傑作品の一つである。 wikipediaより
最早、「1984年」が発刊されたことによって、ジョージ・オーウェルが描いたディストピアが遠い未来に作られるのが確定した世界線に入ってしまったんじゃないかと危惧するほどだった。ジョージ・オーウェル本人はもちろん世界が全体主義化することを危惧して「1984年」を書いたはずだが、世界中の独裁者にとっては全体主義国家の作り方を教えてくれる良い教科書になってしまった危険性がある本だと思う。表現の自由は守られるべきだと思うが、この本は発禁になるべきなのかもしれない・・・。
ジョージ・オーウェルは46歳で病死しており、「1984年」を書いたのは43歳のときである。それまでの彼はSF小説家ではなくルポタージュ作家であり、ルポタージュ作家としてスペインの内戦に参加したり、イギリスの植民地下であったミャンマーで5年間警察として働いたり、第二次世界大戦に軍曹として参加したり、最底辺の生活を体験するために、2年間パリでホームレスとして暮らしたりなど多種多様な経験をしている。恐らくそれらの経験が名作「1984年」の執筆に繋がったのだろうと思う。
今回、私が読んだ「あなたと原爆」は若きジョージ・オーウェルが世界中を旅した中で感じたことをまとめた短編集である。ミャンマーで植民地を統制する警察として働いている時に、現地民に煽られて仕方なく像を殺してしまう「像を撃つ」やドイツ南部の捕虜収容所で出会ったユダヤ人とのエピソードを書いた「復讐の味は苦い」等、印象的なエピソードが多い。今回はその中でも、ジョージ・オーウェルが戦火のヨーロッパを旅する中で感じた、国家が戦争に向かう時に民衆に広まる考え方「ナショナリズム」について紹介しようと思う。
ナショナリズムとは
自分をひとつの国家やなんらかの組織に一体化し、それを善悪の判断を超えた場所に措定して、その利益を増やしていくことのみが自分の務めであると認識するような姿勢のことである。
ジョージ・オーウェル. あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫) (pp.108-109). 光文社. Kindle 版.
ナショナリストは往々にして現実の世界で起きていることに少々無関心である。彼が求めるものとは、自分が属す集団が他の集団より勝っていると感じることであり、そうするためには事実を吟味して現実に自集団が優位か確かめるよりも、敵をやりこめる方が簡単なのだ。
ジョージ・オーウェル. あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫) (p.123). 光文社. Kindle 版.
ジョージ・オーウェルはナショナリズムについて上記のように言っている。真実が何か?を重要視するのではなく、自分が信じる考えや集団を擁護し、敵を打ち負かすことを一番の目的としてしまう考えをナショナリズムと言っているのだと思う。ナショナリズムが広まっていくと、みんな何が真実なのか?何が正しいのか?を議論するのではなく、自分が所属するする考え方や組織の正当性を証明するために他者を攻撃するようになる。
ジョージ・オーウェルがこの傾向について書いたのはおよそ100年前だが、現代でもXやテレビのニュース、YouTubeなど色んなところで見る傾向である。特に現代におけるフィルターバブルやエコチェンバーの問題とも繋がってそうである。私自身、インターネットやXで検索する時に、自分の考えに肯定する内容だけが検索するようなワードで検索してしまうことが多々あり、そういう時はナショナリズム的な傾向に陥っていると思う。
そのため人々は、それぞれの好みに応じてロシアかイギリスかアメリカのいずれかだと結論を決め、そうしたあとで自分の主張を裏付けるための理屈を探し始めるのである。
ジョージ・オーウェル. あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫) (p.111). 光文社. Kindle 版.
公平な心の持ち主で気立てのよい人であっても突如として、とにかく敵を「やりこめる」ことのみに全力を注ぎ、そのためならどれほど噓をついてもどれほど論理的過ちを犯しても気にしないような、悪意に満ちた党派心の持ち主に変貌してしまう可能性がある。
ジョージ・オーウェル. あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫) (p.132). 光文社. Kindle 版.
面白いのはジョージ・オーウェルはこのナショナリズムについて、右翼とか左翼とか考え方そのものとは関係ないと述べていることである。例えば、「多様性は大事だ」と考える人と「多様性はいらない」と考える人がいたとして、どちらかがナショナリストである、というわけではない。しかし、彼らが自分の主張を裏付ける理屈だけに耳を傾けたり、論理的な過ちに気づきながらも、反対の意見を押し込めるために無視するようであればどちらもナショナリスト的な傾向を持っていると言える。
右翼であろうが左翼であろうが、自分の集団が相手よりも勝っていると思い込むために、穿った見方をしているならば同じナショナリズム的な傾向を持っているということになる。また、それまで公平な心を持っていたとしても突如としてナショナリストに変貌してしまうことがあるという点も面白い。
ナショナリズム的な思考に陥らないためには
私がここまで論じてきたナショナリスティックな愛情や憎悪は、それを望もうが望むまいが、私たち殆どの者の構成要素となっている。それを取り除くことが可能なのかどうかはわからないが、それに抗って戦うことはできるはずだと私は信じているし、そうすることは本質的に倫理的な試みだと信じている。
ジョージ・オーウェル. あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫) (p.136). 光文社. Kindle 版.
ジョージ・オーウェル曰く、何かしらの信念や政治的なスタンスを持つ限り、ナショナリズム的な感情を持つことは自然なことである。しかし、現在自分が陥っている思考にナショナリズム的な特性はないか?自分があるスタンスを取ることを前提とした上で公正に振る舞っているふりをしているのではないか?と自問自答することが大事らしい。